忍者ブログ
土井平蔵の中庭

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

アルゴ探検隊

●ずいぶん長く書いてるが…へぇ2ヶ月かね。全然そんな気がしないすな。まだまだ書けるよ的な。もういっくらでも出てくる。
 なんでこういう事書くようになったか…というのは郷土史レベルの遺跡を見てる時に感じたナニヤラが元になってるんだろうと。ナニヤラというのは「黒い影」のようなもので。たとえていえば亡霊です。

●「ここは縄文時代の遺跡で」という説明見ると『いや…そうじゃねぇんだよ』とずうぅ…んとあらわれる黒い影。
「ここは戦国時代の遺跡で」というとこれまた『いや…そうじゃねぇんだ』と現れる。
 それは奥深い闇の底のようでもあり、干からびてザラザラしていて無機質なようで、ひどくヌメっとした、黒い影。何か時空を貫いてそこに存在している。それが完全に出ない場所もあります。

●それは遺跡だけでなく奇岩を見ていても感じる事があります。なにやら荒々しい、寥々とした、しかし過去には偉大な栄光に満ちた…表現が難しいですが。
 まるで過去の日本に荘厳なる「巨石文明」でもあったような。
 でもそんな時代ないわけで。教科書見たって縄文人は掘っ立て小屋に住んでおり、平安貴族は国風の寝殿造りで、江戸も白塗りの…これが明治まで続くわけです。

●だから気のせい、日本人の無いものねだり、とその場は忘れるんですが、グーグルアースで地球上見てるとやっぱり出てくるんすな。『そうじゃねぇんだよ…』と。
 わーかったわーかった、だからこういう事だべ!? という形で今までえんえん書きつらねてきた次第で。ほとんどコジツケですが。
 で書いたあとは例の亡霊がトンと出てこなくなったわけで。当たってたのか、あるいは見当違いな事ばかり書いてるので亡霊のほうも呆れてどっか行っちゃったのか…それはわかりませんが。
 でも金を生み出そうとして失敗した錬金術のごとく、そこから色んなものが生まれてくる感じすな。レムリア大陸のことも何となくわかったし、邪馬台国も何となくわかってきたし。後者は…なんというかお家のゴチャゴチャとした…まあいいや。あれはあんまり解かない方がいいのです。解けたとしても沈黙するしかありません。そういう性質のものです。

●でアトランティス…。利根川図志の6巻にある彌勒謡(みろくうた)を掲載。…と思ったけどだいだらぼっちさんの記事に詳しいのでこちらをどうぞ。
 彌勒謡は茨城の鹿島地方に伝わっていたという里謡ですが、どういうわけか八重山諸島でも歌われているという。むしろ八重山諸島がルーツだろうけど。写真見ると白いお面をかぶった人が中央に立っている。偉い人ですね。白い肌は高貴という文化は昔の日本でもあったし東南アジアでもありますね。白塗りした俳優さんの看板あったりして。
 なんで八重山諸島と鹿島周辺にだけ伝わってる歌なのか。なんでその中間はすっ飛ばされてるのか。という謎を解くカギは「黒潮」です。もうおわかりですね。

●アステカ王国でも「遠い所から来た白い神」という信仰があったそうすな。それでスペイン人が来た時に「白い神が来た!」という事で容易に彼らを受け入れてしまい…ああいう結果になったと。どういう結果かは書かないけど。
 ともかく船にのって遠方から来る白面の神というのは日本でもあったようすな。そう考えなければ黒船がきてわずか15年でそれまで持っていた古い文化を捨てて西洋化するなんて考えられません。環太平洋ことごとくそんな感じがする儒教圏以外は。

●利根川図志…これのせいだろうな、おいらがこんな事書くようになった直接の動機は。まあこれについていくつか。
 柳田國男は幼少のころ播州の姫路から、利根川沿いにある下総の布川という所に移住してきます。で、故郷をはなれた寂しさを紛らすために、隣家(小川家)の倉にあった本を読みあさる。その中に「利根川図志」がある。
 この書を著した赤松宗旦という人は布川の町医だった人ですが、祖父の代まで播州姫路にいたらしい。でどういうワケか流れ流れて下総に定住している。
 じつは柳田の遠祖も赤松氏であり、宗旦とは遠い親戚になるわけで。そうと知らずに柳田はその本から強い影響を受け、しだいに民俗学に目覚めていくわけで。
 赤松といえば…柳田としばしば対極的に扱われる赤松啓介も姫路の隣の加西市の人だという。なにやら赤松家の因縁のようなものを感じます。

●柳田の生家だという福崎町あたりを見てみると、前に「市川」が流れている。この川は例の「姫路・豊岡運河」になりますが、ここではあまり関係がないです。
 で、柳田國男生家から川をはさんだ福田という地区を見て「あれ」と思ったのは、そういえば司馬遼太郎さんの祖先も播州じゃなかったっけと思ったわけで。司馬さんの本名も福田でしたね。

●司馬さんも先祖発祥の地ということで福崎町に深い思い入れがあったろうし、そこで生まれた柳田國男にも何か特別な感情を持ってたかもしらない。それは想像ですが。
 ただ司馬さんも晩年に『街道をゆく』などを書いて、その中でたびたび柳田國男を取り上げている。柳田とはスタイルが違うかもしらないが、日本史を地方レベルから考察している。
 赤松宗旦、柳田國男、赤松啓介、司馬遼太郎。これらに共通するのは民俗学であり、播州姫路だという事で。姫路には何が…。

●ともかく赤松宗旦は町医だった人だけど、その著作の中で「碓氷峠をけずって利根川と信濃川を合流させ、大運河を作る」というアトランティス的なことを書いてる。でもって土地の神話伝承をよく書き残し、それについて(びっくりするぐらいの)豊富な学識で考察を加えている。この人もたぶんかの「亡霊」に出会ってしまった人だろうなと。
 著作の最後で太平洋の大海原、「銚子」の奇岩群に出会い、なにやらやり遂げた、俺はここまで来た、という上気した感じが本を通して伝わってくる。
 そういえば司馬さんも九十九里の海岸で小説家になる事を決意したんじゃなかったけ。号泣しながら。

●司馬さんもしばしば「日本の原初的なもの」をよく書いてます。初期の作品はそればっかりという…。御幼少のころ奈良のどっかの(失念)寺院の祭事でそれを感じて戦慄したという。それは大和的というより蝦夷的なもの。アラハバキ的なもの。恐山の奇岩群…。それをどういうわけか奈良のお寺で感じたという。
 日本の神社仏閣というのは一枚土台をひっぺがすと「別なもの」があるんじゃないか…。それは神話伝承でもそうです。白山菊理姫、草別大神、そして大三王子。それらがかの遺跡の背後にいる黒い亡霊なのではないかと。いや彼らも何かの仮象にすぎない。もっともっと古い時代から発せられる光源、その影法師。

●宗旦もなにか取りつかれたように利根川図志を執筆していたが、上流部の執筆にとりかかろうとする前に亡くなってしまいます。その死の5年後に700年つづいた武家政権(江戸幕府)が崩壊する。
 それは江戸という時代が宗旦にそれを書かせた…というよりかの「亡霊」が宗旦を突き動かしていたかのようにも思える。明治になって土地の改変がすすめられ、古代の姿がま
ったく隠滅してしまっていることを想起すれば。

●おいらも何かに突き動かされ…いやただヒマだから書いてるだけです。
 気が変わったらおねショタのイラストでも作ろうかと(略

PR

カニムイソ

●干拓地だのシマシマ農場だのと書いてるとアトランティスは農業主体みたいになってしまうが、たぶん半農半牧だったと思いますよ。ただ地球上に残ってる痕跡が水利灌漑ばかしなので。
 それまで人類はマンモスやらナウマンゾウ獲って暮らしてた。建築もマンモスの骨で作ってた。それらがどういうワケか激減した。それに代わる生活形態を要請された。そこで画然と出てきたのが半農半牧・巨石建築の民アトランティス人だったと。
 それで何であんな途方もない開発をしまくったのかがわかる気がします。飢餓から救済される道を見つけた喜びのためだったと。

●アジア人の起源について色々見てると、どうもアジア人とポリネシア人の共通祖先はインドの東部、ミャンマーの山奥あたりに住んでたみたいすな。
 その民族的分類はチベット人になってる。なんかっちゅーとチベット人すな。北方遊牧民の祖先もチベット人。南方海洋民族もチベット人。
 なんか超古代においてチベット人がバァーンと拡散してる感じ。

●そういえばあすこらへんにアッサムという地方あったすな。あのアッサムに人口過密地域、メガロポリスでもあったのかもしらない。チベットの須弥山の伝説もそれと関係するのかな。プラトンさんのアトランティスの円形都市の記述と、須弥山のそれが酷似してます。イギリスのストーンヘンジもアトランティスの円形都市を模したものだというけど余談。
 で人が増えすぎて農地が少なくなったので「どっか遠いトコ行って新開地でも開拓するか」という事になったのかと。その音頭取り、推進役になったのがアトランティスだろうと。

●で三嶋大神だか大三王子だかに引きつられて、流れ流れてマレー半島→台湾→日本にやってきたアッサム人がいるわけで。それが前期縄文人です。
 後期縄文人は北方(長江ルート)からやってきたアッサム人の子孫ですね。彼らは長江文明の担い手であり夏王朝を建てたともいわれ、日本に稲作をもたらした人々だともいわれてます。やっぱりどっちもチベット系なんだと。
 だから日本人のY染色体の10%弱にインド系(ハプログループF)が入ってます。10%折原君です。オリエンタル小僧です。

●どうもポリネシア人もその一派らしいんだが、ポリネシア人がハワイやニュージーランドに到達したのは3千年前ぐらいです。だいぶ新しい。ずいぶんゆっくりした移動だったんすな…と思うんだが、じつはポリネシア諸島に来る前に、彼らは「ある場所」で定住してて、かなり高度な文明を持ってたんじゃないかと、こう思ってるわけで。
 それはどこか!(ぉ

●スンダランドというのはマレー半島周辺に存在した古代平野ですが、パプアニューギニアとオーストラリアの間にもサフルランドというのがあったそうな。そのサフルランドあたりに定住してたんじゃないかと。

●彼らがどういう生活を送ってたかなど、水没した後は知る由もないが、彼らはオーストラリアのすみずみにまで拡散した形跡がある。以前書いた巨大湖決壊の痕跡もあるし、なんだかシマシマ農場みたいなのもある。風がつくった風紋ともとれるが、もしこれがシマシマ農場の痕跡なら世界最大級すな。どんだけ人住んでたんだかと。
 世界にこれだけ広大な農地があるとしたらわざわざ日本みたいな小さい島開発しますかね。それがアトランティス人が洪水前は来てなかったという理由になります。来てたとしても小規模なものしか残してない。あとは鉱物資源目的でしょうね。閑話。

●ほかにも城壁で囲った都市国家を作ってたような痕跡もある。ストレンジウェイズという遺跡らしく、イギリス風の建築遺構が残ってるが、ググっても何の説明もない。というか遺跡の上に教会だの建物建ててる気がする。もしこれが都市国家の痕跡だとしたら、少なくともシュメール文明程度の文化があったという事です。
 イギリス人がこの大陸にやってきた時、そこにいるのは半裸で獣を追ってた原住民がいるだけだった。その彼らが…うーん。

アボリジニってどんな人なのかと思って見てみたら…なんだかインドでヨガやってる人でいそうすな。ナントカ上人とかいわれてて。縄文人と比較的近いといわれるアンダマン人も似た感じすな。縄文人の祖先もこんな感じだったのかな。
 全然日本人と似てねーじゃんと思われるかもしらないが、では明治時代の日本人をご覧いただこう。
 後世の日本人は北方系の血が入ってしまったり、生活習慣が変わってしまったので、だいぶアジア的な顔になってるが、100年前までこんなんだったんよ。南方海洋系だったんよ。

●ともかくオーストラリアの南部にこんな場所があるすな。たくさん引かれた格子模様は後世の道路かもしらないが、その格子の中にたくさん白い斑がある。
 これ何だろうなと思って斑のひとつを拡大してくと、中央に井戸らしきものがある。水源…。その水源を中心としてびっしり放射状の線が描かれている。???

●井戸だとしても今は使われてない感じすな。なんせ周りに人家が見当たらない。
 …これってひょっとしてオアシス都市の痕跡なんじゃないかと。びっしり引かれた放射線は井戸を中心にしてる…ってことはこれは「道」であり、人家、もしくは別のオアシス都市につながってるって事では…。
 そういうオアシス都市(らしきものが)…一体どれだけあるのか。数えてないからわからない。それらの白斑の分布の仕方はなんとなく中国やアメリカの都市の分布のそれに酷似している。ここに先史オーストラリア経済圏、大都市圏があった…。
 もちろんオーストラリア中部がまだ緑豊かだったころを想像していただきたく。

●私が超古代の人口を10億としたのはこういうのをいくつも見てるからです。ひょっとしたらそれも過少評価かもしらない。
 その10億の民がある時ごっそりいなくなってしまった。1億以下に激減した。そのあと7千年も「暗黒時代」がつづくわけで。一体何があったのかは全然わからない。
 ヨーロッパではヴァンダル人によるローマ破壊後、中国では後漢から三国時代にかけて人口の大激減がありますが、それ以上のことが世界規模であったわけです。

●この先史オーストラリア都市圏の痕跡にも今は誰も住んでませんね。滅んでしまったのか、どこかに移住したのか。それは大洪水によるものか、乾燥・砂漠化のせいか、あるいは他の理由か。
 ともかく、生き残った人たちも「こんなトコにゃ居られねぇ」という事があって集団移転してしまった。ならどこへ行ったのか…それが冒頭に書いた「ポリネシア諸島に人が住むようになったのはごく新しい時代」と関係してきます。ハワイ、トンガ、タヒチ、ニュージーランド、そしてイースター島…。
 しかし彼らがそんな大都市圏に住んでいたという記憶は失われ、ただムー大陸と鳥人の伝承だけが残る。
 それと巨石建築ね。

神籠石

●日本でほかにAT・ASのつく地名って何かあったっけ…と思ったら愛宕神社があったすな。アタギだかアタゴだか知らないが。けっこう肝心な…しかもよくわからない神様。
 その祭神の中にはイザナギ、ワクムスビ、ハニヤス…と色んな神社に共通する神々が祀られている。ハニヤスは「埴」のことで土器に関する神様だと思うんすけどね。
 でもって奥宮に大国主命の名がある。かつて日本全域を支配していた神。アトランティスの末裔。大黒様。大三王子。と勝手に思ってる神様ですが。
 大三王子は新島だけの神様じゃなくて、そのあと伊豆半島南端に上陸し、日本全国を旅して開発しまくったんですよ。それがティターン神族、ダイダラボッチの伝承として残る。

●愛宕神社の創建に石川の「白山」が深く関わってるようなが…。あの山もなんだかプンプンするんすなアトランティス臭が。前に書いた九頭竜川の水源であり、その下流には足羽(アスワ)がある。しかも印象的な地形をしている。でもって継体天皇の出身地でもあり、古代には越前王権のようなものが…。
 まあこの話はおいといて。

●アタゴといえば朝来(アサゴ)市って見てみたら色んな遺跡があるみたいすな。近畿最大の円墳(茶すり山古墳)があったり、天空の城で有名な竹田城がある。
「古代に巨大権力者がいたことが推測される」ってやっぱりアサに関係する人じゃないんすかね。古墳の名前も「若水(わかすい)古墳」「船宮古墳」とか気になるのが2つ。

若水古墳は和賀(わが)の粟鹿神社脇にあるが、和賀=ワッカ=水という意味にもとれる。先のワクムスビのワクも水に関係する言葉だと思います。
 茶すり山古墳のある和田山のワダも水という意味ですね。英語のWaterもワテルであり、ワダと同根の言葉だと思ってますけど。
 朝来市は銀を産する所であり、円山川(古代運河)の中継地、支流の交差する所であり、そこを握っていたとすれば莫大な富が築けたでしょうな。
 若=若宮=弟三王子…うん(何が

●日下部氏の祖先に彦坐(ひこいます)王という人がいるそうすな。開化天皇の王子だというけど開化天皇自体「欠史八代」であって実在が疑われてる存在であり。だから彦坐王の存在もよくわからない。じゃあ皇族ではないのか…というとそれも違う。やっぱり皇室に深い関わりのある人だろうけど。
 彦坐=男子が坐っているという意味になるんだろうけど。そうすると朝倉氏の「偉い人が坐ってた場所」という推測が想起される。巨大権力者=彦坐王かは知らないけど。

竹田城もなんというか不思議な感じですね。まるで円山川を見下ろすように建ってる。むかしは「安井ノ城」と呼ばれてたみたいすな。
 由来を見てもなんだか漠然としてる。ということは、その、いかようにも妄想を展開してもよいという事で。ふむふむ

●戦国時代のお城見てていっつも思うのは、ほんとにこれゼロから作ったのかなという事で。城築く以前からそこには何かあったんではないかと。石垣は戦国時代の山名氏によって積まれたものとして、土台は昔っからそこにあったんじゃないかという。といってもそんな古いもんじゃないすよ。7世紀ごろです。
 このお城見てるうち古代山城のノリに似てることに気づいたので。朝鮮式の城塞です。

白村江の大敗のあと、日本はアワ食ったように古代山城を築きまくる。こんな本格的な軍事的要塞を築いたのはたぶん日本史初かもしらんすな。それぐらい当時の日本は大陸からの侵攻を恐れていた。ほとんど恐慌状態だったと思います。そのあと日本は北九州に防人おいたり、たびたび唐に使者を送ってゴマスリ外交をしますが、それが894年までいたる遣唐使になる。

●あるいは竹田城(の土台)も古代山城の一つだったのかなと。岡山にある鬼ノ城もやっぱり山上にあって竹田城と似た匂いがします。
 でもあの古代山城の話見るたび「?」となるんですけどね。かの仁徳・応仁天皇陵のような巨大構造物を造った民族が、なんで城築くのに高句麗人や百済人に建設一切を任せてるのかという。こんな山城築くなら朝飯前だろうと。

●しかも7世紀あたりから日本で前方後円墳がパタッと造られなくなる。天武・聖武天皇のころの大和朝廷って絶大な権力を有してたと思うんですが、両帝の陵墓はずいぶん質素なもんです。古墳造った人たちとほんとに同じ民族なのかなという。
 それが「古墳が超古代発祥」だと思ってる根拠の一つになってるんですけどね。つまり古墳は昔からそこにあった人工丘(お迎えの台)であり、後世の人がお墓に転用しただけだと。7世紀になるとあらかた日本は制圧してしまったので、お墓に転用すべき人工丘のストックがなくなってしまった。だからそれ以後の「お手製の陵墓」は質素なんだと。山城築くにも百済人の手を借りてるんだと…。
 でもエジプトやローマでさえアトランティスを凌ぐようなものは作れなかったわけであり、それに匹敵するもの作れったって当時の日本には無体な話です。

●瀬戸内海や九州北岸に城を築くならまだしも、なんで内陸部の朝来に城を築いたのかという。そのころ(飛鳥・天平時代)の円山川はまだ大洋間運河としての機能を持ってたからじゃないかと思うので。山陰から山陽に抜ける道はそこ、水運の重要地、と当時の人は認識してたかもしれない。その運河を、唐・新羅連合軍が利用するかもしれない。それに備えて大和朝廷が城を築いた。
 古代山城の一覧になんでか三尾城があるがあれは琵琶湖畔ですね。琵琶湖も内陸じゃん、関係ねーじゃんと思うかもしらないが、実は大いにあるんです。高島市の石田川にもやっぱり「日本海に抜ける運河」があったと思うんです。だからそこに城を築いた…。

●でも城を築くより、運河埋めたほうが早くねーか。という事で生野、あるいは仁科三湖などを塞いだ。例の琵琶湖運河にも塞がれた形跡(今津地区の若狭街道ぞい)があります。こんな山奥なのに「津」というのもおかしいですね。何ででしょうね。地名は過去の実態を伝えてるんですよ。
 なら太平洋側に抜けるルートはどこなのか…と書くと長くなるんですけどね。瀬田川・宇治川ルートが自然でしょうけど、個人的には和邇川から京都大原に出て高野川→鴨川が妥当な気がするんですけどね。途中の「途中」という場所には京都方面にむかって深い谷が続いてます。なんの途中だったんでしょうね。
 当時の京都は湿地帯だったそうですが、それを干拓したのがトンデモ話によく登場する秦(はた)氏ですね。Hataです。Hは発音しない場合があると書きました。ハイわかった、土井の言わんとしてる事がよく(略

●古代山城の一覧に竹田(安井ノ)城の表記がないのは建設途中で放棄されたから、所在が判明していない城の中に竹田城がある、山名氏による縄張りにより旧態が失われてしまった、など色々考えられます。
 この唐・新羅の来襲にそなえて運河を塞いだというのはあくまで仮定(=話のネタ)の一つです。前に書いた姫路・姫宮神社の話もその一つとして。ネタはたくさんあったほうがよい。

●でも塞がれた運河はそのまま放置されてます。なんでかというと大陸から馬がもたらされたからですね。馬による交通にあわせて律令時代に古代官道が敷設された。だから運河の重要性が低下してしまい、放棄されて忘れ去られてしまった…という所じゃないすかね。これは明治における鉄道と水運の関係に似ています。
 古代の神々がなんだか日本のあちこち飛びまわって移動してる感じがするけど、天鳥船でもないかぎりは大洋間運河でもあったと考えるのが自然な気がするんですけどね。

●ふむふむ以下からの妄想終了。

額取山

●こうしてみると地名ってのは恐ろしく古い歴史があるのが見えてきます。アトランティス由来なら1万年の歴史がある。それを後世の人間はその時代時代の解釈で表記する。でその由来を聞かれると「わからない」となる。
 でも日本に残るアトランティスの痕跡ってそんな古いもんじゃないと思うんです。といっても大洪水以前・以後という意味での古いという意味ですが。

●アレクサンドル・ゴルボフスキーという人の本だと大洪水の被害というのはヨーロッパ、西アジア、アフリカなどで甚大であり、中国や日本ではそんなでもなかったという。アジアに残る洪水伝説は、たとえあったにしてもごくサラッと書いているか、もしくは存在すらしてない場所もある。
 ひょっとしたら洪水以前はアトランティス人は日本に来ていなかったかもしれず、洪水後に避難するように移住してきたアトランティス人がいたんではないかとも考えられ。だから日本に「新しい干拓地」が多いという証明にもなります。そういう所にアサだのアタだのという地名を残す。

●そういえばカナコさんの苗字も朝隈でしたな…。でもあれは越前朝倉氏+鞍谷公方をモデルにしてるんでアトランティス関係ありません。
 でも朝倉氏も…なんでアサのクラなのか…という。だいたい「朝だけ時間限定の倉庫」って意味わからんでしょ。クラ=偉い人が座ってる場所だから「アトランティスの偉い人が座ってる場所」という解釈もできる。

朝倉氏の発祥地ってどこなのかと思ったら…前回出てきた朝来市の隣にある養父(やぶ)市だという。養父市も例の運河(円山川)沿いにありそこに朝倉天満宮がある。もうほんとに1%なのという。
 朝倉氏は日下部(くさかべ)というのが元の姓らしい。その由来を調べるとナニナニ王、ナニナニ王と一定してないすな。由来というのはたいてい朦朧として一定してない。在地の土着豪族が王権との結びつきが深いことを示すために王の末裔を自称する例は数多くあります。

●前回、北アフリカの地名でアクカだのアクカネシティだのと、AS・ATじゃない地名を列挙してしまったけど、あれはアサ、アサッカときて「アクカ」だったので、流れで書いてしまった結果です。「あれ、アサ、アクカ…まあいいや」的な。だんだん混線してくるんですよ。
 ただ北アフリカはアトランティスにとって極めて重要な土地であり、その超技術が遺憾なく発揮された場所だと思うんです。一時期そこに都を置いていたような印象も受けます。もちろん水が潤沢にあり緑が豊かな時代のころです。カルタゴの繁栄もその遺産の恩恵の上に立っていた結果ではないかという気もします。

●で、磐梯熱海のこと書いてた時は失念してたんですが、そういえばあそこらへんに安積疏水というのがあったのを思い出し。やっぱりアサカです。3代目じゃありません。光代さんでもありません。
 江戸時代まで郡山市の西郊には安積原野という荒蕪地が広がっていたが、猪苗代湖から農業用水をひっぱることで田園地帯にしたという。

●でも安積はそのまま読むと「あづみ」だろうと。いかにも当て字っぽいです。
 と思ったら奈良時代は「阿尺」と書かれてたらしい。アシャクなのかアサクなのか。一般に関東以北は語尾の母音を発音しない(もしくは発音しなくても平気な)のが特徴であり、asakだったのかもしらない。でも平気じゃない関西人はアサクゥ、アサカァと母音を強調する。

●なんでいきなり関西人が出てきたのか。奈良時代のころこの阿尺に葛城王(橘諸兄)という大和朝廷の貴族が赴任してくる。たぶんこの人が「今日からこの土地はアサカァにしなはれ」とか言ったのかもしらない。
 で、葛城王はこの土地を干拓し、ついでに土地の美女(春姫)を都に連れて帰っていった…という事になってます。
 でも橘諸兄の略歴に安積を開発したという経歴が書いてないすな。特筆して書かれるべき大事業だと思うんですが。しかもこの時代はまだ蝦夷の勢力が強くて、ゆっくり干拓してる余裕なんてあったのかな。田村麻呂やアテルイがまだ生まれてない頃の話です。
 なんだか大和朝廷が来る以前からこの土地はある程度干拓されてたんじゃないかという感じもします。そういう伝承もありますが後述。

●干拓…というと郡山には干上がらせるべき湖沼があったのか。たぶんあったんでしょうね。郡山市には無数の溜池があるが、あれは古代湖の痕跡だと思います。そうとう広大な湖だったかと思われ。
 というより日本にある盆地のほとんどに古代湖があった気がします。横手盆地にもあったというし、奈良盆地も内海の痕跡であり、山形盆地にも藻が湖(もがうみ)という巨大湖がありました。もがうみは最上(もがみ)の語源だという。
 それぐらい古代は内陸の水量が潤沢だったという事であり、それを考慮に入れないと古代運河の話もちょっとピンと来ないかもしれません。

●で、それを証明するかのように郡山市の西郊に菅船神社というのがある。こんな内陸にあるのに船というのもおかしいですね。でもこの神社の前まで湖が迫っていたら…と思うと納得できます。
 菅というと菅原道真=天満宮なのかと思ったら関係ないらしい。そのまま菅でつくった船という意味にもとれる。目からウロコですね。古代の船は「菅舟」が普通だったのです。

●菅舟じゃわかりづらいかもしらないけど、葦舟を想像するとわかりやすいかもしれません。古代エジプトにも「ナイルをくだる葦舟」というイメージがあり、先アメリカ文明でも葦舟です。でっかい葦の浮島をつくって家建てて住んでたりする。
 日本では縄文の丸木舟ばかり出土するけど、丸木舟はかなり高級品であり、たいていの人は葦舟・菅舟に乗ってたんでしょう。葦だから腐土化して残らないわけです。

●なんで丸木舟が高級品かってのは、当時は鉄器がないからです。鉄製のノミもない時代、木を刳りぬくのは大変な手間だったと思うんです。しかも一木造りなので、どんな大木でも小型船以上の船を作ることはできない。
 菅か葦ならそういう手間もなく、軽くて巨大な船の建造も可能です。2人いれば小舟をかついで一山越える事もできたと思われ。
 でも小型の葦舟だと外洋の荒波に耐えるのが難しくなる。アトランティス人が内陸の運河にこだわった理由の一つだと思います。

●菅船神社の近くには王宮伊豆神社がある。「!?」となります。王宮ときて伊豆。しかも祭神の中に三嶋大神の名がある。大三王子と弟三王子の父神であらせられる方です。
 あ、こりゃもう確定だ。安積はアトランティス由来だ。アトランティスの開拓の跡だと。

●でもよく見たら、伊豆の豪族だった工藤氏が、自分トコの神様を持ってきただけみたいすな。なんだ偶然かね…。でもアトランティス由来とおぼしき土地に三嶋大神を持ってくるなんて因縁めいた感じもします。というか工藤氏による勧請の由来も後付け臭いんだけどね。
 ともかく工藤氏が来る以前からその神社に祀られていたのが「草別(くさわけ)大神」という神。どうも最初に「阿尺」を開拓した神らしいんだが、この神についてそれ以外のことはわからない。たまに神社の由来記に、古事記にも日本書紀にも載ってない出自不明の神様が出てくるけど、そういう神々が先史文明と関わってくるんじゃないかと思ってますがね。記されざるもう一つの日本史です。

●草別様…一体どんな方だったのか。ナントカの「草別け」という言葉があるが、そこから来た言葉なのか。それとも草別様から「草別け」という言葉ができたのか。
 と考えてた時にふっと思い出したのが冒頭の「くさかべ」という苗字でした。朝倉=日下部、安積=草別…。おおっ! と。先史時代において日本全国を歩きまわって開拓しまくった一族。クサカベ、クサワケ、おおっ!
 …というイメージがふっと湧いて、消えた。見えそで見えない。わかったよでわからない。妙なひらめき。
 だいたい日本の「先史時代」というのは世界史的に見ても新しすぎて、アトランティスの時代と合わない事が多いのです。なのにアタやアサという地名が残る…うーん。

●アサときてクサなら浅草だ。江戸っ子もアトランティス人だ。という丸投げ的結論。

七霧の里

●ATもしくはASではじまる地名ってどのぐらいの割合であるのかと思って調べたら全体の1%ぐらいですね。10%ぐらいあるのかと思ったけど。
 語頭のAは、U、E、HAに変化する場合もあり、エト、ウト、ハトとなる。Hは発音しない場合がある。ギルガメシュ叙事詩に出てくる「ウトナピシュティム」もあるいは「アトナピシュティム」なのかもしらず、そうするとアトラ・ハシースに語感が近づいてくる。創世記のノアに相当する人です。

●こういうのは「アル~」とつくとああイスラムなんだな、「サン~」「セント~」とつくとキリスト教なんだなとわかるのに似てます。とにかく「あ、ここあいつらが好きそうな場所だな。好きそうな岩場だな」という場所にはATかASがついてる。「居てました!」と言わんばかりに。その傾向を列挙すると

・山が切ってあるような場所
・岩がむき出しになってる場所(石切場?
・現在ダム湖になってる場所(むかしも人工湖だった可能性あり
・干潟(古代干拓地?
・扇状地、谷のすぼまった部分

 あとすんごい山奥に運河の中継地みたいな村を作ってた感じすな。そういう所に山越えの人足をたくさん置いてたんでしょう。左肩がごっつ盛りあがった男とか。

●あとマル、アマ、カル、クシとかも多い気もするが。遺跡らしき所にATやASがない場合この地名がついてます。クシは中央アジア(トルコ系)で「赤い」という意味らしく、クシュ、クジュ、キジル、クズルなどに変化します。クシャーナ朝にクジュラ・カドフィセスという王様いるけどクシャーナとクジュラもそうなんかな。トルコにもクズルウルマク川があるすな。天は赤い河のほとりの赤い河だろうけど。
 なんか「赤い」という意味には他に深い意味がある気がするね。赤心という言葉もあるし、仁丹とか臍下丹田の丹も赤です。太陽とか生命といった。

●日本の(くすり)という語源調べると「奇すし」だの「草」だのと一定してないけど、あれも中国の「丹」から来てるんだろうと。丹=赤い=クスという風に。クス玉もそうだったりして…。
 地名だと久慈、串木野、九頭竜(くずりゅう)川、九重(くじゅう)連山とかあるけども…さすがにね。でも中央アジア全域で使われてる言葉が日本だけ例外というのも何だけどな。
 赤い川…いろいろ写真とか見たけど九頭竜川はべつに赤くないすな。ただ福井の山奥は柘榴石の産地だというのでそれと関係するのかな。赤い宝石の川…。ここで問題になるのは赤いのは宝石なのか川なのかという(どうでもえ
 まあこの話は置いといて…。

●この北アフリカのゲルミン・エス・スマラ地方には東西にたくさん岩脈状の山脈が横たわってますが、山が切られた場所にはたいていその名がついてます。アサ、アクカ、アクカネシティ、アグラカル、アディス、アッサカ、エスメラ…他探すともっとあるかもしらない。おかしいでしょ1%なのに。
 あとタタ、ティサンという地名もあり。タタやティサンはティターン族を連想します。プラトンさんもアトランティス人は北アフリカの「アトラス山脈のはじっこ」に住んでるとか書いてるし。新島の大三王子と弟三王子もティターンが語源だったりして。2人とも北アフリカ人だったのかな…。

大三王子「アハハ、バカ言ッテンジャネーヨ」 弟三王子「フジャッケンナヨ」

●地名といえば日本もそうだったな…。この旭市周辺にはかつて椿海(つばきうみ)という内海があったが、江戸時代に干拓されて今の姿になってます。それにしては周りの丘がきれー…に、定規でひいたように直線状に切られてます。丘むこうの小見川周辺もきれー…な箱状になってます。
 それはいいんだけど、干拓前にはやっぱりラグーンがあったらしい。ラグーン…つまり椿海は水没した古代干拓地、だったのかな。江戸時代の人も「あ、これは埋め立てやすそうだな」と思って埋めたんだろうし。
 ああアサヒ市だからアレか、アトランティスかと思われるかもしらないが違います。中洲があったと思われる場所に「網戸」という地区があるが、そこは江戸時代まで阿知戸と呼ばれてたそうな。その丘向こうにも貝塚で有名な阿玉台があります。やっぱりアチでありアタです。

●瀬戸内海の姫路から、日本海側の豊岡にかけて運河にしてもおかしくないような(播但線ぞい)がずーっと続いており、いやまさかな…と辿っていくと朝来(あさご)市がある。「お?」となります。「来てた? アサ来てた?」とこう…。途中の生野銀山の所でこういう風に谷がふさがってる。これさえ無ければ滞りなく行けるのに…まるで誰かが塞いだかのような…。誰が…?
 生野というのはむかし死野といわれてたそうな。生死の境です。んでもって生野には姫宮神社がある。
 なんで姫路なのか。姫とは誰なのか。誰がその路を辿っていったのか。んでもって生死の境に姫宮神社…さ、わかるっしょ。

●実際塞いだかのかは知らないけど、人為的に塞がれた運河も多いかもしれません。長野の仁科三湖もなんだか運河跡っぽいんだが、やっぱり塞がれたような跡がある。3D機能で斜めから見ると直線の堤防状になってるのがわかると思います。この山さえなければ日本海側から諏訪方面に抜けることができます。で諏訪湖には天竜川の上流がある…もうおわかりですね。
 これで敵が運河を利用できない、船で来られないようにしたんだろうかね。まるで太平洋側と日本海側の勢力が戦ってたかのような…。もし武田信玄と上杉謙信が戦ってて、両者の間に通行しやすい運河があったらどうなりますかね。お互い恐怖でしょうね。
 仁科三湖もやっぱり姫川流域です。姫って誰のことなんでしょうね。

●太平洋側の阿武隈川から、日本海側の阿賀野川につながる運河があったら便利そうだな…いやでもまさかな…と思って辿ってくと磐梯熱海という場所がある。毎回こんな感じでATに出くわします。ここから直接西に向かうルート…というのが自然ですが、途中段差があってちょっと怪しくなる。昔はダム湖でもあったのかな。
 あるいは北の安達太良(アダタラ)山の脇を通るルートも考えられます。山の西麓には小川が流れており、それを辿ってくと、あら不思議、磐梯山のどてっぱらに辿りつきます。途中かなり大胆な省略。

●ともかくこの磐梯山にもどなたか住んでた感じなんですけどね。戦場ヶ原で見た例の陸橋の跡もあるし。ちなみにこの山の神社も磐椅(いわはし)神社…。陸橋は天鏡台という隆起につながっており、台のむこうに磐梯山がある。でもって陸橋の南にある森はなんだか条里制のような形状になってる。まるで都でもあったかのような…。条里制の都というのは中国の方式なので、超古代のものじゃないと思うんですけどね。だいたいアトランティス人は対称的な形状を嫌います。
 この磐梯山下を通りすぎると日橋川が流れており、それを辿ってくと会津若松、そして阿賀野川に到達します。江戸時代も会津藩の物流の要となっていた川です。そのあとは日本海です。

●途中かなり怪しかったけど、まあ隠滅したものと仮定して…もしこういう運河があったら相当便利だったと思うんです。でもって磐梯山下の「お宮」のような形状。
「会津磐梯山は宝の山よ」というのは運河の中継貿易で栄えたという意味なのでは…。
 戦国大名の芦名(あしな)氏は相模国芦名が発祥といわれてるが、それは後付けであって、ほんとは古くから会津地方にいた豪族なんでは…。
 その芦名氏から出たという天海僧正、そして江戸の町におけるあの壮大な土木事業…と色々トンデモ妄想が膨らんで困る始末。

●でもこれら運河が後年まで存在していたら江戸時代における西廻り・東廻り航路なども存在してなかったに違いなく、各地の港の繁栄もなかったわけで。何が良いのか悪いのかという話。