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土井平蔵の中庭

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アルゴ探検隊

●ずいぶん長く書いてるが…へぇ2ヶ月かね。全然そんな気がしないすな。まだまだ書けるよ的な。もういっくらでも出てくる。
 なんでこういう事書くようになったか…というのは郷土史レベルの遺跡を見てる時に感じたナニヤラが元になってるんだろうと。ナニヤラというのは「黒い影」のようなもので。たとえていえば亡霊です。

●「ここは縄文時代の遺跡で」という説明見ると『いや…そうじゃねぇんだよ』とずうぅ…んとあらわれる黒い影。
「ここは戦国時代の遺跡で」というとこれまた『いや…そうじゃねぇんだ』と現れる。
 それは奥深い闇の底のようでもあり、干からびてザラザラしていて無機質なようで、ひどくヌメっとした、黒い影。何か時空を貫いてそこに存在している。それが完全に出ない場所もあります。

●それは遺跡だけでなく奇岩を見ていても感じる事があります。なにやら荒々しい、寥々とした、しかし過去には偉大な栄光に満ちた…表現が難しいですが。
 まるで過去の日本に荘厳なる「巨石文明」でもあったような。
 でもそんな時代ないわけで。教科書見たって縄文人は掘っ立て小屋に住んでおり、平安貴族は国風の寝殿造りで、江戸も白塗りの…これが明治まで続くわけです。

●だから気のせい、日本人の無いものねだり、とその場は忘れるんですが、グーグルアースで地球上見てるとやっぱり出てくるんすな。『そうじゃねぇんだよ…』と。
 わーかったわーかった、だからこういう事だべ!? という形で今までえんえん書きつらねてきた次第で。ほとんどコジツケですが。
 で書いたあとは例の亡霊がトンと出てこなくなったわけで。当たってたのか、あるいは見当違いな事ばかり書いてるので亡霊のほうも呆れてどっか行っちゃったのか…それはわかりませんが。
 でも金を生み出そうとして失敗した錬金術のごとく、そこから色んなものが生まれてくる感じすな。レムリア大陸のことも何となくわかったし、邪馬台国も何となくわかってきたし。後者は…なんというかお家のゴチャゴチャとした…まあいいや。あれはあんまり解かない方がいいのです。解けたとしても沈黙するしかありません。そういう性質のものです。

●でアトランティス…。利根川図志の6巻にある彌勒謡(みろくうた)を掲載。…と思ったけどだいだらぼっちさんの記事に詳しいのでこちらをどうぞ。
 彌勒謡は茨城の鹿島地方に伝わっていたという里謡ですが、どういうわけか八重山諸島でも歌われているという。むしろ八重山諸島がルーツだろうけど。写真見ると白いお面をかぶった人が中央に立っている。偉い人ですね。白い肌は高貴という文化は昔の日本でもあったし東南アジアでもありますね。白塗りした俳優さんの看板あったりして。
 なんで八重山諸島と鹿島周辺にだけ伝わってる歌なのか。なんでその中間はすっ飛ばされてるのか。という謎を解くカギは「黒潮」です。もうおわかりですね。

●アステカ王国でも「遠い所から来た白い神」という信仰があったそうすな。それでスペイン人が来た時に「白い神が来た!」という事で容易に彼らを受け入れてしまい…ああいう結果になったと。どういう結果かは書かないけど。
 ともかく船にのって遠方から来る白面の神というのは日本でもあったようすな。そう考えなければ黒船がきてわずか15年でそれまで持っていた古い文化を捨てて西洋化するなんて考えられません。環太平洋ことごとくそんな感じがする儒教圏以外は。

●利根川図志…これのせいだろうな、おいらがこんな事書くようになった直接の動機は。まあこれについていくつか。
 柳田國男は幼少のころ播州の姫路から、利根川沿いにある下総の布川という所に移住してきます。で、故郷をはなれた寂しさを紛らすために、隣家(小川家)の倉にあった本を読みあさる。その中に「利根川図志」がある。
 この書を著した赤松宗旦という人は布川の町医だった人ですが、祖父の代まで播州姫路にいたらしい。でどういうワケか流れ流れて下総に定住している。
 じつは柳田の遠祖も赤松氏であり、宗旦とは遠い親戚になるわけで。そうと知らずに柳田はその本から強い影響を受け、しだいに民俗学に目覚めていくわけで。
 赤松といえば…柳田としばしば対極的に扱われる赤松啓介も姫路の隣の加西市の人だという。なにやら赤松家の因縁のようなものを感じます。

●柳田の生家だという福崎町あたりを見てみると、前に「市川」が流れている。この川は例の「姫路・豊岡運河」になりますが、ここではあまり関係がないです。
 で、柳田國男生家から川をはさんだ福田という地区を見て「あれ」と思ったのは、そういえば司馬遼太郎さんの祖先も播州じゃなかったっけと思ったわけで。司馬さんの本名も福田でしたね。

●司馬さんも先祖発祥の地ということで福崎町に深い思い入れがあったろうし、そこで生まれた柳田國男にも何か特別な感情を持ってたかもしらない。それは想像ですが。
 ただ司馬さんも晩年に『街道をゆく』などを書いて、その中でたびたび柳田國男を取り上げている。柳田とはスタイルが違うかもしらないが、日本史を地方レベルから考察している。
 赤松宗旦、柳田國男、赤松啓介、司馬遼太郎。これらに共通するのは民俗学であり、播州姫路だという事で。姫路には何が…。

●ともかく赤松宗旦は町医だった人だけど、その著作の中で「碓氷峠をけずって利根川と信濃川を合流させ、大運河を作る」というアトランティス的なことを書いてる。でもって土地の神話伝承をよく書き残し、それについて(びっくりするぐらいの)豊富な学識で考察を加えている。この人もたぶんかの「亡霊」に出会ってしまった人だろうなと。
 著作の最後で太平洋の大海原、「銚子」の奇岩群に出会い、なにやらやり遂げた、俺はここまで来た、という上気した感じが本を通して伝わってくる。
 そういえば司馬さんも九十九里の海岸で小説家になる事を決意したんじゃなかったけ。号泣しながら。

●司馬さんもしばしば「日本の原初的なもの」をよく書いてます。初期の作品はそればっかりという…。御幼少のころ奈良のどっかの(失念)寺院の祭事でそれを感じて戦慄したという。それは大和的というより蝦夷的なもの。アラハバキ的なもの。恐山の奇岩群…。それをどういうわけか奈良のお寺で感じたという。
 日本の神社仏閣というのは一枚土台をひっぺがすと「別なもの」があるんじゃないか…。それは神話伝承でもそうです。白山菊理姫、草別大神、そして大三王子。それらがかの遺跡の背後にいる黒い亡霊なのではないかと。いや彼らも何かの仮象にすぎない。もっともっと古い時代から発せられる光源、その影法師。

●宗旦もなにか取りつかれたように利根川図志を執筆していたが、上流部の執筆にとりかかろうとする前に亡くなってしまいます。その死の5年後に700年つづいた武家政権(江戸幕府)が崩壊する。
 それは江戸という時代が宗旦にそれを書かせた…というよりかの「亡霊」が宗旦を突き動かしていたかのようにも思える。明治になって土地の改変がすすめられ、古代の姿がま
ったく隠滅してしまっていることを想起すれば。

●おいらも何かに突き動かされ…いやただヒマだから書いてるだけです。
 気が変わったらおねショタのイラストでも作ろうかと(略

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