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土井平蔵の中庭

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藤原北家

竹取物語のかぐや姫は宇宙人だという話が多すぎるので、なんとなくそのモデルになっただろう人を書く。

●「あまの原 ふりさけみれば かすがなる みかさの山に いでし月かも」
 と詠んだのは安倍仲麻呂という人ですね。この歌の中に「月」が出てきます。この月が重要なカギを握ってたんすな(と個人的な思い込みで)
 じゃあかぐや姫とは安倍仲麻呂だったのか。おっさんだったのか。ちゃうちゃう。

●唐に渡って立身出世した人というと安倍仲麻呂ばかり有名だけど、ほかにも藤原清河という人もいるんすな。この人も日本に帰れぬまま唐で客死している。
 清河には唐の婦人との間に喜娘(きじょう)という娘さんを儲けている。この喜娘がかぐや姫のモデルなんじゃないかなと思うわけで。

●父の清河が死んだその翌年に喜娘は日本に渡ってます。途中で暴風に遭い、船が難破し、舳先にしがみついてようやく肥前国に漂着する。鑑真さんの時といい渡海は命がけだったんすな。
 で、喜娘さんの消息はそこで途切れてます。まあ平城京に行って歓待を受けたことは間違いないと思うんですが。

●じゃあ帰国後の喜娘さんを保護したのは誰なのか、という話になるわけで。たぶん「竹取の翁」に関係する人だろうと。
 そしたらちゃんと居たんですな。それが藤原鷹取という人。
 藤原清河の弟である魚名の子。ということは喜娘にとっては従兄弟にあたる人。たぶんこの人が喜娘さんの面倒を見たんじゃないかなと。鷹取=竹取に通じます。

●じゃあ喜娘さんは死ぬまで日本に居たのか…。竹取物語を見ると「月に帰った」というんだから唐に帰ったんじゃないかなと。
 月を見上げるたびに、唐で客死した父親のことを思い浮かべたろうし、仲麻呂さんのあの歌も思い出したと思います。

「翹首望東天、思又皎月円…」

●で、いつ帰ったのか。遣唐使の一覧を見ると17次(779年)と18次(804年)が妥当だと思うんですが。
 でも喜娘が日本に来たのが778年だとすると、779年に行なわれた17次ではバタバタしすぎてます。だから18回目の遣唐使船で帰ったんじゃないかと。

●で、その18次の乗組員の名前を見てくんさい。空海、最澄、橘逸勢、霊仙、菅原清公(道真の祖父)…なんというか錚々たるメンバーというか。当時のインテリジェンスが一同に会してる感じです。
 とすると「竹取物語の作者」もこの中にいるんじゃないかなと。

●「竹取物語の作者は空海だった!」
 というと面白すぎるし、分かりやす過ぎるんですが、乗組員の中に菅原道真の祖父にあたる人(清公)もいるから菅原道真説も考えられるので。お祖父さんから聞いた話を憶えてて、大宰府に左遷された自分の境遇とかぐや姫を重ねあわせて書いたのかなと。

●まあ竹取物語は色んな説話がミックスしてて、喜娘さんだけの要素で見ようとすると外れるんだろうけどね。

●空海「そういうこと」(←一番宇宙人っぽい
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