佐和山の城
ちょいと検討中…
【歴史よもやま】家康の滞在地
行って短期間滞在したことのある場所…なら美濃とか近江とかも外せないんじゃないすかね。信濃・甲斐・相模にも行ってたろうし。
北陸は越前ぐらいかね。金ヶ崎の撤退の時の殿(しんがり)を務めたって話あるし。
のはいいんだけど…茨城がないのが遺憾。「家康が来た!」という伝説を聞かされて育った県民としては。
家康が小貝川を渡ろうとした時に…土地の豪農が手助けをしたので…その褒美として羽田の姓を与えたとか。
江戸崎には家康公お手植えの「逆さ銀杏」があるとか。
家康がたまたま立ち寄ったお寺(利根来見寺)に…むかし文字を教わったお坊さんが住んでて「これは奇遇」と昔話に花が咲き…じゃあこのお寺を赤く塗りなさいと(唐突
建物を朱で塗るのは幕府の許可が要ったんです。それがあるだけで権威(ハク)がつく。東大にある赤門はもともと前田家の江戸屋敷にあった門だけど…って長くなるので略。
じゃあなんで家康さん茨城ウロウロしてたのか…というのは千葉とおなじく鷹狩(という名の巡撫)が目的だろうけど。本当の目的は佐竹・伊達に対する備えすな。
江戸の北方に壮大な防衛ラインを築こうとしてたんだろうと。
でも関ヶ原戦後は佐竹・伊達の脅威がなくなったのでその計画も廃棄された模様。
*伊達政宗はバチカンに使者を送ってたけど…あれは西欧の力をかりて天下を狙ってたってことじゃないすかね。実際伊達は「脅威」だったんです。
【歴史よもやま】三成さんの軍師募集
といったらもうあの人しかなかろうと…シマサーコン。
三成さんは4万石の所領のうちの半分を島左近に与え…って話あるけどあれは作り話らしいすな。
実際は佐和山城主になる以前から島左近は家臣団に名を連ねてたっていう。
でもあんまし虚実を詮索しすぎるのもね。史実ってのは淡々としてるんで…あんまし詮索しすぎると歴史に興味を持つ青少年がいなくなる可能性。ちょっとドラマチックな方がいいのだ。という余談。
でも渡辺勘兵衛の話はホントらしいけどね。
三成さんがまだ500石取りの官僚にすぎなかった時に、その500石を全部勘兵衛に与えたって話。
「お前さんみんな勘兵衛にやっちまって、自分はどうするんだね」と秀吉から聞かれた三成さん「じゃあ勘兵衛の居候になります」って答えて秀吉を大笑いさせたという。
その話が島左近の話にすりかわったのかね。よくわからず。
三成さんが17万石の大名になっても勘兵衛は最初の500石のまま、というのも島左近の話と一緒すな。
あのころはそういう気質の武将多かったのかね。禄高の多寡じゃなくて…主君がどれほど自分を買ってくれるかという。
それがわかったら後は自分の命をなげうつまでという。
一種の奇人、傾奇者すな。
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