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土井平蔵の中庭

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脳内整理

●そっかカツオブシかぁ…と最近感心すること多し。

あの分布を調べると古代王権の何事かがわかりそうすな。

●つまり房総、伊豆、紀州、土佐、薩摩…。太平洋岸。
 個人的な予想では中国江南と台湾あたりにいた海洋民族だと思います。越とかビンとかいう人たち。

●紀元前2500年ごろにこの人たちが太平洋に拡散してポリネシア人になったという話もあり。
 今の中国人と顔が違うじゃんと思われるかもしらないが、むかしの中国沿海にはタヒチ人とかトンガ人みたいな人が住んでたんですよ。北方からきた漢民族に追っ払われたわけで。

●なら古代王権は太平洋岸だけ支配してたのか。いや全国に網羅してたと思います。これが後期縄文人というやつで。
 そのころ日本では海位の上昇によってそれまで魚貝を獲って暮らしてた原住民の数が激減してた。ほとんど無人に等しかった。そこへ簡単な農法をもった人たちがやってきたわけで。だから現地人からは熱烈に歓迎されたと思いますよ。神様にされちゃうほど。

●でも途中から「コシ」という人たちがやってきて日本海側を支配してしまった。このころから弥生時代が始まるわけで。
 この人たちは中国山東省あたりにいた漢民族で、いわゆる斉人。漢字では「越」の字があてられてるけど、中国の越とは関係ないと思います。

●むかしはたんにコシとか古志とか呼ばれてた地域に越(こし)という字を当ててたんでしょうな。新潟の長岡あたりに中心地があった気配。
 会津磐梯山麓にあった条里制の都みたいな痕跡はこの漢民族が残したもんだろうと。

●この後期縄文人(国津系)と弥生人(天津系)が時折対立し、あるいは融和しながら共存してたのが弥生時代であり、その影響は蘇我氏と物部氏の対立、平将門の乱、前九年・後三年の役、源平合戦、朝廷と武家の関係、南北朝時代、はては藩閥と自由民権運動の関係にまで及んでおり、ぶっちゃけ日本史は国津系と天津系の関係で説明できたりする。

●ほとんどアトランティス関係ない…いやいや国津系・天津系どっちも元はチベット人という事です。アッサム人です。
 アッサムから北方に行った人たち(漢民族)と、南から海をめぐってやってきた人たち(長江・江南人)が東シナ海沿海で出会ったわけです。そこで目くるめく歴史ドラマが生まれ…。
 もういいか疲れた。
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